貫汪館 横浜支部稽古

扨又不問語

 

秋はすっかりどこへやら。10月なのに暑い日が続き、30度を超える日も。
職場では上着とネクタイを省略どころか、冷房まで入っています。

土曜は出勤でしたが、夏のような暑さの中、冷房なしで仕事でした。
お昼過ぎに帰宅後も、日中は暑くてどこにも出かける気にもならず。
そのまま昼寝をしていました。
夕方になって起き出すと、外は風がびゅーびゅーごーごーと。
ワルプルギスもかくや、というほどの勢いです。言いすぎか。
強い風のせいもあってか、陽が落ちてからはどんどん涼しくなりました。

 

六尺棒、居合刀、定寸の鞘木刀、大石神影流の長い鞘木刀を持って家を出ます。
着替えて、六尺棒を袋から出して、木刀に鍔をつけて、などとしていると、あっという間に5分10分は経ってしまいます。

 

正座して黙想
体育館の外は風がびゅーびゅーごーごー、がたがたごとごとがさがさぎーぎーと。
どこからか風に乗って、お祭りのお囃子が聞こえてきます。なんでしょうか。
強い風のせいで、閉めておいた入口の扉が勢いよく開いてしまいました。
なかなか落ち着きません。
それでも十分リラックスはできました。昼寝をしていたせいでしょうか。
やはり心身の状態が良ければ、質の良い稽古もしやすいのかと思います。
いろいろときつい中での稽古も、それはそれで大事な稽古だとは思いますが。

 

立ち上がって、ゆっくりと歩きます。
そけい部をゆるめて、足を遣わずに重心で移動するよう。
足を振り出さないよう、蹴らないよう、足の裏にべったりと体重を預けて歩きます。
後ろから誰かに押されているような、お尻の下を支えてもらっているような。
コンパスや竹馬のように、まっすぐ伸ばした足を振り出して歩くのではなく。
マリオネットのように上から吊り下げられて、全身が宙に浮いた状態でふわふわと。腰はまっすぐ水平に移動する。

 

アシモの歩き方が参考になるかと思って Youtube であらためて見てみましたが、

腰がひょこひょこするのが気になりました。

走る姿もぎこちない。ロボットが走れるだけでもすごいことだとは思いますが。
重心が高いのはもちろんですが、上半身が四角いままで変形しないせいもあるのかなと、ぱっと見で思いました。
飛行機は、鳥のような翼を持ちながら、鳥のように羽ばたきはしません。
鳥とは違う原理で飛行しています。
自動車は、四足の獣とは違い、車輪で移動します。
二足歩行は人間の真似なのでしょう。
今後、より人間に近付くのか。それとも人間よりも洗練された歩き方になるのか。
あるいはまったく違う歩き方になるのか。とても興味があります。

 

腰が高くなると、足を蹴って振り出してしまいがちです。
腰の位置が低いことは、足を遣わない歩き方の条件の一つかと思います。
腰の位置が高ければ、体の構造上、足を振り出さなければ歩けない。
腰を低くするには、膝を柔らかく遣う必要がある。常に曲がっているように。
でも低い腰も曲がった膝も、作為的にすると体が緊張して固くなってしまいます。
そけい部がゆるんだ結果として、腰が落ち、膝が曲がり、足首が柔らかくなる。
端まで歩き後退して元の位置に戻って立ち止まると、腰が少し高くなっています。
歩くのに筋肉が緊張して、上体を押し上げてしまっているのでしょう。
弛めて沈み、また歩きます。戻って立ち止まると、また少し高くなっている。
しばらく繰り返すと、ほとんど変わらなくなりましたが、まだ少し。

 

刀礼をして、腰に刀を帯びます。どっしりと重い。
でも、あるべきものがあるべき場所に収まったような、そんな感じがします。
しっくりとして落ち着く。刀は腰の楔とも言うようです。
ぎっちりと固めるイメージはどうかとも思いますが、安定するのはたしかです。
立ち上がると、すでにちょうどよい腰の高さになっています。
そのまま前進後退。戻っても腰の高さは変わらず。いい感じです。
刀が、腰の高さを教えてくれている気がします。
刀があった方が歩きやすい、と館長がおっしゃっていられたことを思い出します。

 

右足を半歩踏み出し、抜き出して構えます。そのまま前進後退。
腰の重さがなくなり、体の外に重さがあるようです。前腕がつらい。
元の位置に戻り、刀を体の前に立てて、自然に前に下ろして行きます。
構えるのではなく、あるべき位置にただ下ろすだけ。握らない。支えるだけ。
腰が高い。刀にそう言われたような気がして、さらに少し弛めます。
さらに少し沈みました。でもこれがちょうどよい高さのように感じます。
そのまま前進後退。さきほどよりもいい感じです。何回か繰り返します。
刀の声に耳を傾けます。

 

正座して大森流
今回はいい感じです。斬撃には力みはなく、すとんと落ちます。
とくに速く振るつもりはなくても、刀が勝手に走ってくれます。
重い刀ですから、小手先の力を加えるまでもなく勝手に斬ってくれることでしょう。
胴体を水平に一刀両断する必要も、頭から尾てい骨まで唐竹割にする必要もない。浅く斬ればそれで十分。数センチ斬り込めば用は足りる。
力を加えて振ると、実感はありますが、それは私には濁りのように感じられます。
無心に振っているときには、透明な感じがします。
振る、というよりただ下ろすだけ。一瞬ですとんと落ちて、勝手に留まります。

 

続いて英信流表、英信流奥
一気に抜いて、一息入れます。

 

太刀打、詰合
定寸の鞘木刀で稽古しました。長くて重い居合刀のあとだと、短くて軽く感じます。
いつもならそれが違和感に感じられますが、今回はとくにそういうことはなく。
短くて軽いな、とは思いましたが、でもただそれだけでした。
とくに意識することもなく、普通にするすると動くことができました。
刀を振ろうという意識があるときには、刀に振られて体が流れてしまいます。
肚から動いていれば、末端の動きに左右されることはありません。

 

続いて大石神影流の稽古
長い鞘木刀で稽古をしました。鞘も自作です。
鞘はなくても稽古には支障はないなんて思い、手鞘や袴紐で代用していました。
でも審査のときにはやはり少し不都合があって。出雲に備えて作成したのです。
すでに作成済みの方の話を聞いて真似をして、自分なりに工夫してみました。
我ながらなかなか良いデキです。

 

試合口、陽之表、陽之裏、鞘ノ内
長い木刀にも違和感はありませんでした。自然に動くことができます。
握り締めることなく、叩きつけることなく、振り廻すこともなく、ただすとんと。
打とう、斬ろうとは思わず、ただ無心に動きます。

 

大小詰
定寸の鞘木刀で、仕太刀と打太刀。するすると動きます。

 

六尺棒廻し
わざと最後に稽古してみました。
いつも同じというのは、良い点もあれば、悪い点もあることでしょう。

ただなんにしろ、いつも同じでないと動けないというのでは少し困ってしまいます。
広いので調子に乗って、ぶんぶんと廻します。
少し速く廻してみようなんて思ったとたんに棒と足が合わなくなって、棒が重く感じ、前腕がきつくなります。もちろん回転の軌道も乱れたものに。
親指と人差し指で輪っかを作って、虎口に引っ掛けるだけ。というか乗せるだけ。
常にほんの一点だけが触れているような感覚です。あるいは指でつまんでいるような。
そうすると棒は、とても楽しそうに自由にくるくると廻り出します。
あとは棒に合わせて体の左右を入れ替えるだけ。それが棒に伝わります。
棒を廻そうとするのではなくて、棒に合わせて自分が動く感じです。
同じ長さでも、細くて軽い棒ならもっとびゅんびゅんと廻せるのかもしれません。
でもこの太さこの重さならこの速度、というのがあるのでしょう。
あるいは今の私にはこれが精いっぱい、というところなのでしょうか。

 

なんにしろ、力任せに振り回すというのは、貫汪館の教えには合いません。
それになんといっても、私には楽しく感じられないのです。
楽に動くということは、楽しく動くということと同じなのではないでしょうか。
ただ、なにが楽しいかは、人それぞれなのかもしれませんが。

H25.10.13