会津藩士の墓

 神奈川県横須賀市には幕末に亡くなった会津藩士の墓があります。当時、会津藩は相模の国のうち、一部を除いた三浦半島のほぼ全域を藩の領地としていました。これは、幕府からの命令で三浦半島での会津藩が外国からの防衛を担当していたからです。この時の三浦半島の会津藩は三万石の領地だったそうです。

 また、彼らの子弟の教育の為に会津藩の藩校である養生館と集義館が設立されました。ここでの教育内容は不明ですが、学問だけではなく武道も教育していたと思います。

 この三浦半島での防衛は負担が大きく、会津藩は何度かこの防衛の任務を辞退しており、これが聞き入れられた後には松平容保は幕府の役職の京都守護職に就任しました。これは幕府と会津藩の信頼関係が窺えるエピソードだと思います。

 その後の会津藩は京都守護職として朝廷を守りましたが、大政奉還を経て、王政復古の大号令が発令され新政府が誕生した際には会津藩が排除され、後の戊辰戦争に繋がります。この時、会津藩は朝敵とされてしまい戊辰戦争後には与えられた斗南藩へ、実質的には追放される形で移住しました。この時の斗南藩の人々は苦難の日々を過ごしていたそうです。

 

 会津藩での武道について調べてみました。先述の養生館や集義館でこれらが指導されていたかは分かりませんでした。

 会津藩士の遣った武道は次の通りです。

 

溝口派一刀流:

 一刀流の分派の一つです。一刀流溝口派とも呼ばれます。現在、全ての形の伝承は途絶えており一部の形のみが伝わっているようです。

 

太子流:

 正式には「聖徳太子流」といいます。望月定朝が流祖で、軍学、剣術、薙刀を含む流派です。現在、伝わっているかは不明でした。

 

無辺流:

 大内無辺の創始した鎗術の流派です。無辺無極流は小栗上野介忠順の記事の無辺無極流は無辺流の分流です。現在は棒術として分かれた無辺流(正式名称は無辺要眼流棒術)が伝わっています。 現在、伝わっているかは不明でした。

 

林崎新夢想流:

 林崎甚助を流祖とする居合の流派で、三尺三寸の長さの刀を用いて稽古をします。現在でも伝わっております。

 

北辰一刀流:

 江戸時代後期に千葉周作が創始した流派で、一刀流の分派です。千葉周作は大石神影流の大石進と試合をしたそうです。現在でも伝わっております。

 

小野派一刀流:

 伊東一刀斎の開いた流派の一刀流の分派です。現在でも伝わっております。

 

 この他にも様々な流派が伝えられておりました。現在では詳細が不明な流派も多くあります。

 西南戦争では、会津藩士が警視庁抜刀隊として参戦し、朝敵から官軍になることが出来ました。これら流派を会得した会津藩士が戦い、日本国内の最後の内戦が終わりました。

 

<参考>

 横須賀市のページ

 

 会津/夢の一ふし 

 

 会津への夢街道

2023/01/01 コバヤシ