萩原連之助2

前回の「横浜の武道史」で紹介された萩原太郎の武術歴が非常に興味深いので更に振り下げて調査した。

平成元年315日(水)発行の横浜開港資料館報「開口のひろば」第26号 西川武臣「萩原連之助の記録」にある「萩原太郎行篤伝」に詳しくあるので時系列で紹介していく。

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_26.pdf

横浜開港資料館報「開口のひろば」第26号から引用
横浜開港資料館報「開口のひろば」第26号から引用

 

萩原太郎は文政10年(1827年)78日 江戸湯島3丁目に旗本杉浦越前守邸(江戸湯島)に生まれた。父は萩原弥太郎行孝、萩原家は祖父以来杉浦家の代官であり、太郎も相州鎌倉郡平戸村(現在の横浜市戸塚区平戸町周辺)で育った。幼名は連之助、後に太郎に名乗り、行篤と称した。(注1)

 

萩原家はその領地の一つである平戸村の代官としてこの地に屋敷を構え、代官は勘定奉行に属し、年貢などの収納や警察、民事・軽犯罪の裁判などの職務に当った。このことから代官屋敷内には、お白州(法廷)、石畳、牢屋などもあった。

 

旧東海道沿いの境木地蔵前の細い道を下り、竹林の中の更に細い道を抜けると江戸時代から残る萩原代官屋敷の門がまだ現存している。(注2)

タウンニュース 戸塚区版2021年6月17日号から引用
タウンニュース 戸塚区版2021年6月17日号から引用

 

天保12年(1841年 水戸藩、弘道館を創設)

15歳にして杉浦家に召し出され次詰徒目付格となった。(注3

幼少から武術を好み信州上田藩士早田真太郎を師として直心陰流剣術を学び、長沼庄兵衛、団野源之進、庄司弁吉、伊庭軍兵衛、桃井春蔵の道場にも稽古に行き、ついにその奥を極めた。

 

弘化4年(1847年 徳川慶喜、一橋家を継承)

20歳にして平戸村に道場を開いた。弘化・嘉永の間(~1853年)には東海・畿内の諸国を歴遊後江戸に戻り、剣術練磨の間に次の諸武芸を修めている。

柔術:栗林幸次郎、手塚三次等について学ぶ

・居合:山野井流(注5):大関勝斉、丹治増成を師とし免許皆伝

・弓術:坪内八左衛門に日置流弓術を学び弓術七道の巻を受けた。

・馬術;小垣勝五郎の門に入る。

・騎射及笠掛の術(注4):大関勝斉、丹治増成を師とし免許皆伝

*その他、杉浦家の命により山鹿流の軍法を学んでいる。

 

嘉永4年(1851年 ジョン万次郎琉球に到着)

24歳、近習格に昇進、相州知行代官見習となり自宅在住となる。

 

安政2年(1855年 講武所設置)

28歳 近習に昇格、沿海警備の為相州三浦郡宮田村に出張していた長州藩と剣術の試合をし、その後命によって近郷の農家の指定に剣術を享受し有事に備えるようも申し付けられる。

 

安政5年(1858年)

後の新撰組の隊長となった24歳の近藤勇が他流試合(道場巡り)でこの道場を訪れたとのこと。(注5)

 

慶応2年(1866年 徳川慶喜、第十五代将軍につく。 孝明帝崩御)

39歳 支配役となる。父弥太郎隠居につき、跡目相続を申し付けられる。

また命により平戸村にて農兵の訓練し、武田耕雲斉の乱では士卒農兵200人を率いて下総成田・銚子地方に派遣され功により賞を受ける(注6)

 

その後明治維新時は杉浦家の領地の丹波国桑田郡に派遣された。

維新後は浦和県庁に出仕したが暫くして帰国。神奈川県庁の命によって橘樹郡保土ヶ谷外三ヶ町、下星川・和田・仏向・坂本四ヶ村の戸長任じ、その後第二大区長として久良岐郡笹下村に勤務した。また神奈川県御用掛として巡査撃剣掛となった。

 

明治28年(1895年 日清戦争勝利)

68歳 大日本武徳会第一回演武会にて褒賞を受け、小松宮殿下より武術精錬の証状(精錬証)を授与された。(注7)

 

明治37年(1904年)

77歳にて逝去

 

注釈

1.        Wikipediaでは「鈴木弥太郎行孝の二男として生まれる。相模国鎌倉郡平戸村代官萩原家の養子となる。」とあるが、ここでは平成元年315日(水)発行の横浜開港資料館報に記載された「萩原太郎行篤伝」を元に記載した。

2.        タウンニュース 戸塚区版2021617日号から引用 https://www.townnews.co.jp/0108/2021/06/17/578920.html

3.        旗本の役職: 旗本・御家人の監察

4.        笠掛(笠懸):流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難度が高いが、格式としては流鏑馬より略式

5.        山野井流=山之井流:始祖は奥州の人林崎甚助重信で、元亀天正(一五七〇-一五九一)の間に林崎明神に祈って秘術を悟り、夢想流を開いた。この流れをくんだ相州小田原の岡本伊兵衛重伯(しげあき)は、これを山ノ井流と称して、天下に広めたのである。大洲藩では滝野弥左衛門久勝(二百石)が仙石次郎左衛門久繁(-一六七六)からこの伝を受け、蓑島太兵衛に継ぎ、」「その伝脈はながく引き継がれ、藩内盛んに行われた。」「蓑島太兵衛の伝脈は、山ノ井流と共に電撃流及び観水流兵法をもあわせ伝えている。」とある。相州から始まったことになる。     (『大洲市誌 増補改訂』P676「剣術(兵法)」(大洲市誌編纂会、1996))

6.        タウンニュース 戸塚区版2021617日号から引https://www.townnews.co.jp/0108/2021/06/17/578920.html

7.        武田耕雲斎の天狗党の乱の処断が186531日(元治2年)と慶応2年の支配役着任以前なので事実関係が正確か不明。

8.        1895年(明治28年)417日、小松宮彰仁親王を総裁として大日本武徳会が結成され、同年1026日から28日まで第1回の武徳祭大演武会が開催された。全国から989名の武術家の参加があった。この大会で、各武術の特に優秀な人物に「精錬証」と名付けた表彰が行われた。剣術では15名が選ばれた。弓術は17名、柔術は6名、槍術は3名であった。精錬証は、1902年(明治35年)に「範士」と「教士」の称号が制定されるまで、大日本武徳会における最高の表彰であった。

 

1回の精錬証を授与された剣道家。(残念ながら萩原太郎の写真無し)

前列右から 梅崎弥一郎、小南易知、三橋鑑一郎 石山孫六、得能関四郎、奥村左近太。

後列右から 吉田勝見、高山峰三郎、松崎浪四郎、香川善治郎、阿部守衛、原不二夫。

(出典:剣道家写真名鑑 (剣道家写真名鑑刊行会, 1924))  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967304

 

余談だが上記 「剣道家写真名鑑」の精錬証受賞者写真に大石神影流精錬者2名も掲載されていた。

 

まとめ

館長先生のブログ「道標」(2020425日 武士の武術修行)にもあるように当時の武士が若くして剣術だけでなく複数の武術を修めていたことが良くわかった。また精錬証の調査で大石神影流の先達の写真を見つけられたのは収穫だった。

 

以上

2022/07/01 アライ